注:これは現中の課題に提出した文をそのままこちらにコピペしたものである。なお、赤文字のところのみ原文にない日本語訳を付け加えている。

 

そもそも私は口語より文語のほうが好きなのだが、あえて口語のほうを評価した前提で進めるとする。

まず狂人日記の解説を踏まえ、誰でも参加できる、つまり国民を動かす、そして改善させるプロパガンダのような印象を最初に受ける。最初にとっつきやすいものはそのまま飲まれるものだ。この点において、よく国民性を理解している。補足しておくが、ここでいう改善というのは魯迅にとっての理想であり、国民性を変えることを奨励しているわけではない。

しかし、同じ部位をたべることでよくなるという非科学的な根拠を儒教と見抜き、批判した点において、いかに中国の医学がおくれているか、思想がねじ曲がっているかも明らかにしつつそれを腐敗した文化として痛烈に叩いているとわかる。さすが医学部で学んだことをしっかり引用している。しかし、文化を否定することはどの人間も嫌うことである。伝統とは守り伝えねばならないものだからである。ここでいう文化や伝統は何を隠そう,吃人的!(人間食え!(強調))ここで私の意見であるが、先代から受け継がれた伝統を引き継ぎ伝える義務は全くないし、むしろそれは古い文化なので形骸化させ、また新たに塗り替える必要があると思う。ドラゴン桜の一コマから好きな部分を引用するが、「伝統と書いてゴミと読む。」である。まさしくその通りであるな、と。もちろん儒教は悪!焚書坑儒や!!などと危ない思想を私は持っているわけではない。そんなことをしたらファーストエンペラー(この前砂山学部長が仰っていたので、折角なので引用させていただく)の如く失策をしてしまう人間と同じ価値になってしまう。(ここではただのしがない大学生が偉大な始皇帝様と既に同じ価値であることを示しているわけではなくあくまで失敗者としてである。そんな驕りを持っているならばまさしく私が坑されることがふさわしい)しかしもし暴政を働き忽ち若干歴史の汚点となっていただいたのにもかかわらず、そこから学べない人間がいるとすれば私は迷わず埋めてしまいたい。余談であるが高校時代はよく埋めるぞと言われていた。教師に始皇帝がいるのかと思ったが幸いなことに紀元前ではなかったので実行されることはなかった。しかし友人たちの中でこの言葉がはやったので始皇帝の思想を植え付けられたものが多発した。その結果隣のラグビー部がおにぎりを地面に埋めていて、まさしく我々は戦慄した記憶がある。砂の中にいる微生物たちにも餌付けをする聖人であったのだろうか?否、農家に謝れ。

話がずれてしまったが、ビスマルクの言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」というまさしく私が体中に彫るべきくらいの言葉がある。いくら儒教オヨビ森羅万象なんでもそうであるが頭ごなしにその存在、意味を全否定しそれを自分の考えのみで抹消しようとするのは極めて危険な思想である。私は常々そう思っているのでなんとなく狂人日記の考えに賛同しにくい。しかし私が中国人だったとしてこれを読んだとき、理解出来るほど賢い知識人ではないことは自明である。胡適白話文学、つまり口語運動は国民をターゲットにしているが、若干失敗するように思うのである。勿論、北京大学様に通われる聡明で有望な学生の皆様を教育するとするならば、まさしく文学の革命である。賢人の思想を形作り、国家体制を変化させようとしたやり方は天才である。まるでそれは鉄の部屋に大きな壁を開け、さらにそこにル・コルビジェが唐突に表れ機能性を重視しシンプルで快適な空間を須臾で作り、先ほどまで死にかけていたそこにいる人間を画期的にし、寿命を全うするほど生き返らせるくらいの大きな革命ではないか?(機能的な面は私のサヴォア邸に対するイメージである)

話が飛躍してしまったので儒教というカニバリズムを推奨するヤバい思想の話に戻るが、仮にこれを肯定する考えも導いておきたい。もし食べるとするならどんな人間をたべるか?もちろん決まっているが、若い人間である。実際狂人日記の中に息子を蒸したり、春秋時代に赤ん坊を蒸して食べさせたりなどという鬼畜が存在したような旨が記載されている。最も狂人の話であるので真偽は不明であるが、忠義心を表しているらしい。何かに尽くすことは自らを犠牲にし、他者に恩恵をもたらす行為なのでここでは遠回しに儒教批判をしているようである。同時に何かにおぼれる人間は破滅を導くということもここで分かるので教訓にしておく。

この狂人は、世の中が悪い方向に進んでいることに気が付いたのにも関わらず、冒頭で精神病が完治してしまった、つまりその気づきがなくなってしまったことになんと冒頭にかかれている。最初に伏線を持ってくる斬新なスタイルに感服した。しかし、私は愚かであるので、いや、これ最後に書くべきだろう、、、などと瞬間に考えてしまったが、あえて冒頭に書くことによって再びこの作品を手に取るとき、違った見方が見えてくるというこれまたおいしい特典であったことに解説で気が付き、まさしく今庭に自らを埋めようと穴を掘っている。ほんとに穴に入るべきであった、それくらい愚か、魯迅先生すごすぎ。

世界各地で人の流れに逆らう人間は確認される。ラスカサス著:「インディアスの破壊についての簡潔な報告」や、映画:真昼の決闘(簡潔に説明するがこれは赤狩り、つまり民主主義の負の部分を批判し、最大多数の最大幸福が必ずしも正しいものではないことを表現している映画)などにみられる。私たちも毎日目まぐるしく回る情報に日々おぼれながら何が正しいのか取捨選択をしている。今の時代、答えはインターネットですぐに見つかるが、果たしてそれは正しいのか?私たちはインターネットででた結果を暗記し、利用している。日々錯綜する事柄にもう一度向き合い考える力が必要ではないだろうか?インターネットリテラシーをより磨き何が大切かもう一度見つめなおし、大衆とともに泳ぐ行為から脱出してみようではないか。狂人日記は常に、そしてどんな時代でも私たちを見つめなおす機会を与えてくれる。完治してしまった狂人のようになる前に我々は狂人になるべきだ。