和訳不要論

正直木曜日は大学生になってから1番鬱だ。私が毎週木曜日に自殺し埋葬され3日後に復活するとしても自殺しないのはバイトがあるからである。それ以外楽しみはない。
というのは英語の授業があるからである。昨年はイングリッシュonlyの部屋に投獄され環境に慣れるのに時間がかかった。自分の実力不足による苦しみであったので、まだ打開方法は存在した。
しかし今の春学期の木曜の英語の授業はそれまでの苦痛と異なる、まさしく勉強している実感がないような只管虚無体験をし続けている。必修である故に受講しているが、如何せんレベルが低すぎる。大學受験を熟した者ならば聞かなくていいような講義を、90分間全身を蝕まれるように聞かねばならない。
最悪レベルが低すぎて簡単なのはまだいい。しかし私が最も歉然するテキストの音声を聞きそれを訳し、只管ダラダラと単語を解説していくあの敗北した日本語教育が今大學でさえ行われている。昨年度は全くこのようなことは無かった。
そもそもこの教育方針の疑問に気がついたのは中学生の頃であるが、今過去から踏まえ置き直してみると文が伸びただけでする事は何一つ変わっていない。継続的な事柄を長く続けているだけの読書の1種である。
私たち日本人はこのような方針で教えられるため、当たり前のように感じる故に海外でカルチャーショックのようなものを感じることが少なくない。海外の留学の経験から日本に持ち帰ってきたものを拡散するようなものがSNSを通じて散文される。このような指摘が国語で扱われもう一度教育システムの是正に拍車がかかればまた一段と変わるに違いない。
私が読んだこの記事を参考にしたい。言語化できていない私の考えがスッキリ出されている。
ここで1つ加えておきたいのが、今の授業が完全なる悪であって昨年度はとても満足のいくシステムであった。同じ大学でこのような教育格差が生まれているのが問題である。
英語を英語として読まず、わざわざ日本語訳しながら読む必要はない。もちろん教育段階の上では、理解する上で必要であるという意見には納得する。自国の言語と重ねた上での教育は母国語と外国語の置き換えの上で役に立つ。そしてアウトプットとしてそれを捉えることが出来る。しかしそれは同時に瞬間的な答えを求められる会話においてかなりのディスアドバンテージとなる。ここに所謂話せない英語が生まれることになると私は考える。それ故にこの和訳を中心とした授業には憤慨をせざるを得ないわけである。

語学の勉強法について

 清華大学サマースクールが終了し緊縛の状態から軟体動物のようになり次に自分に鞭打つ方法を探しているがなかなか見つからない。

 今自分の指標は中国語の上達であり方法を模索している最中である。と同時に、大學から奨励金をかき集めるためドイツ語ロシア語韓国語に手を出し悉く打ちのめされている。

 清華大学のイベントを通して明らかに変革したことがある。それは言語に対する自らの姿勢である。

 以前から文法→基礎固め完了→単語増やしながら文に移っていくという姿勢に対しては疑問の提示をしてきた。私の考えは最も大事なのは単語であって単語をできてこそ文法が構成されるという点である。

この前のドイツ語の授業では文法をメインに教鞭をとるので、かなり困惑した。と同時にドイツ語に対するモチベが低下した。そこでドイツ語のモチベを回復するためにビートルズを引用して学ぶシステムを導入した。結果からいえば単語力のみがかなり向上し身についた単語を文法にあてはめれば理解が通常よりもはやく深まることが判明した。つまり文法と単語のマルチタスクは効率が悪いと断言出来る。

これは昨年の中国語の授業でも同様のことが発生した。初学から始まる中国語である故に文法を提示されても分からない。発音も分からない。読み方も分からない。意味もわからない。その上で学ぶ文法などなんの意味があるのだろうか。

ここで冒頭の清華大学の話に戻る。私のチームは中国×日本×アメリカというWW2の頃には考えられなかった連合国と枢軸国の組み合わせが実現した。ここで注釈を加えるが、中国の南京政府は連合国側とするが、中華人民共和国は枢軸国なので、今回私は中華人民共和国を中国と扱う為、枢軸国扱いである。

 ここでクソ雑魚日本人イングリッシュを披露した自分であるが、なんとアメリカ人がその内容を汲み取りそれを正しい英語に直し会議するというよく分からない通訳みたいのが度々発生した。最もチャットを多く使った為このような皆に迷惑をかけることは少なかった。ここで感じたのは単語こそ至高であり文法は二の次である。会議を最低限成り立たせることに成功した。もちろんネイティブがいてこそというのも承知である。

 しかし、では文法は必要ないと言う訳では無い。それは危険な思想である。実例として中国人に英語を話す時にいくつか会話が通じなくなることが発生した。最も3回程度であるが。

 中国語でも会話をした。今度は中国人は単語だけで理解したのである。この実証を用い確立できる理論は、「最低限レベルの交流というものは単語のみで構成することが可能であり、その交流を向上させるためには文法が必要である。」ということである。

ここから日本の教育の単語と文法を同時進行するというやり方は微妙なものであって文法が先行するなどありえないことである。私は只管単語を暗記させる期間を作ることが必要となると確信し、文法に重点を置いている今の教育には使える言語が身につかないと考える。

しかしこの暗記というのも苦痛の時間でありしんどいと思われるので使用しながら覚えていくという仕組みがいいように思う。

例えばこうである。私はバナナが食べたいとする。

I want to eat bananasとなるが、私の教育方針、使用出来る英語教育だとすると

bananas!bananas! I eat! eat!Bananas!eat!want!でいいと思うのである。これで色々な単語を覚えることができる。言語というものは通じればいいと考えている上で成り立っている理論であるので、プレゼンなどになってくると使えなくなってしまう。確かにそこに問題を孕んでいるが、ここで文法を学べば、矯正という形でまた別の形態を作ることが可能であると私は考える。

発音やリスニングについてはまた述べるつもりである。

注:これは現中の課題に提出した文をそのままこちらにコピペしたものである。なお、赤文字のところのみ原文にない日本語訳を付け加えている。

 

そもそも私は口語より文語のほうが好きなのだが、あえて口語のほうを評価した前提で進めるとする。

まず狂人日記の解説を踏まえ、誰でも参加できる、つまり国民を動かす、そして改善させるプロパガンダのような印象を最初に受ける。最初にとっつきやすいものはそのまま飲まれるものだ。この点において、よく国民性を理解している。補足しておくが、ここでいう改善というのは魯迅にとっての理想であり、国民性を変えることを奨励しているわけではない。

しかし、同じ部位をたべることでよくなるという非科学的な根拠を儒教と見抜き、批判した点において、いかに中国の医学がおくれているか、思想がねじ曲がっているかも明らかにしつつそれを腐敗した文化として痛烈に叩いているとわかる。さすが医学部で学んだことをしっかり引用している。しかし、文化を否定することはどの人間も嫌うことである。伝統とは守り伝えねばならないものだからである。ここでいう文化や伝統は何を隠そう,吃人的!(人間食え!(強調))ここで私の意見であるが、先代から受け継がれた伝統を引き継ぎ伝える義務は全くないし、むしろそれは古い文化なので形骸化させ、また新たに塗り替える必要があると思う。ドラゴン桜の一コマから好きな部分を引用するが、「伝統と書いてゴミと読む。」である。まさしくその通りであるな、と。もちろん儒教は悪!焚書坑儒や!!などと危ない思想を私は持っているわけではない。そんなことをしたらファーストエンペラー(この前砂山学部長が仰っていたので、折角なので引用させていただく)の如く失策をしてしまう人間と同じ価値になってしまう。(ここではただのしがない大学生が偉大な始皇帝様と既に同じ価値であることを示しているわけではなくあくまで失敗者としてである。そんな驕りを持っているならばまさしく私が坑されることがふさわしい)しかしもし暴政を働き忽ち若干歴史の汚点となっていただいたのにもかかわらず、そこから学べない人間がいるとすれば私は迷わず埋めてしまいたい。余談であるが高校時代はよく埋めるぞと言われていた。教師に始皇帝がいるのかと思ったが幸いなことに紀元前ではなかったので実行されることはなかった。しかし友人たちの中でこの言葉がはやったので始皇帝の思想を植え付けられたものが多発した。その結果隣のラグビー部がおにぎりを地面に埋めていて、まさしく我々は戦慄した記憶がある。砂の中にいる微生物たちにも餌付けをする聖人であったのだろうか?否、農家に謝れ。

話がずれてしまったが、ビスマルクの言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」というまさしく私が体中に彫るべきくらいの言葉がある。いくら儒教オヨビ森羅万象なんでもそうであるが頭ごなしにその存在、意味を全否定しそれを自分の考えのみで抹消しようとするのは極めて危険な思想である。私は常々そう思っているのでなんとなく狂人日記の考えに賛同しにくい。しかし私が中国人だったとしてこれを読んだとき、理解出来るほど賢い知識人ではないことは自明である。胡適白話文学、つまり口語運動は国民をターゲットにしているが、若干失敗するように思うのである。勿論、北京大学様に通われる聡明で有望な学生の皆様を教育するとするならば、まさしく文学の革命である。賢人の思想を形作り、国家体制を変化させようとしたやり方は天才である。まるでそれは鉄の部屋に大きな壁を開け、さらにそこにル・コルビジェが唐突に表れ機能性を重視しシンプルで快適な空間を須臾で作り、先ほどまで死にかけていたそこにいる人間を画期的にし、寿命を全うするほど生き返らせるくらいの大きな革命ではないか?(機能的な面は私のサヴォア邸に対するイメージである)

話が飛躍してしまったので儒教というカニバリズムを推奨するヤバい思想の話に戻るが、仮にこれを肯定する考えも導いておきたい。もし食べるとするならどんな人間をたべるか?もちろん決まっているが、若い人間である。実際狂人日記の中に息子を蒸したり、春秋時代に赤ん坊を蒸して食べさせたりなどという鬼畜が存在したような旨が記載されている。最も狂人の話であるので真偽は不明であるが、忠義心を表しているらしい。何かに尽くすことは自らを犠牲にし、他者に恩恵をもたらす行為なのでここでは遠回しに儒教批判をしているようである。同時に何かにおぼれる人間は破滅を導くということもここで分かるので教訓にしておく。

この狂人は、世の中が悪い方向に進んでいることに気が付いたのにも関わらず、冒頭で精神病が完治してしまった、つまりその気づきがなくなってしまったことになんと冒頭にかかれている。最初に伏線を持ってくる斬新なスタイルに感服した。しかし、私は愚かであるので、いや、これ最後に書くべきだろう、、、などと瞬間に考えてしまったが、あえて冒頭に書くことによって再びこの作品を手に取るとき、違った見方が見えてくるというこれまたおいしい特典であったことに解説で気が付き、まさしく今庭に自らを埋めようと穴を掘っている。ほんとに穴に入るべきであった、それくらい愚か、魯迅先生すごすぎ。

世界各地で人の流れに逆らう人間は確認される。ラスカサス著:「インディアスの破壊についての簡潔な報告」や、映画:真昼の決闘(簡潔に説明するがこれは赤狩り、つまり民主主義の負の部分を批判し、最大多数の最大幸福が必ずしも正しいものではないことを表現している映画)などにみられる。私たちも毎日目まぐるしく回る情報に日々おぼれながら何が正しいのか取捨選択をしている。今の時代、答えはインターネットですぐに見つかるが、果たしてそれは正しいのか?私たちはインターネットででた結果を暗記し、利用している。日々錯綜する事柄にもう一度向き合い考える力が必要ではないだろうか?インターネットリテラシーをより磨き何が大切かもう一度見つめなおし、大衆とともに泳ぐ行為から脱出してみようではないか。狂人日記は常に、そしてどんな時代でも私たちを見つめなおす機会を与えてくれる。完治してしまった狂人のようになる前に我々は狂人になるべきだ。