語学の勉強法について

 清華大学サマースクールが終了し緊縛の状態から軟体動物のようになり次に自分に鞭打つ方法を探しているがなかなか見つからない。

 今自分の指標は中国語の上達であり方法を模索している最中である。と同時に、大學から奨励金をかき集めるためドイツ語ロシア語韓国語に手を出し悉く打ちのめされている。

 清華大学のイベントを通して明らかに変革したことがある。それは言語に対する自らの姿勢である。

 以前から文法→基礎固め完了→単語増やしながら文に移っていくという姿勢に対しては疑問の提示をしてきた。私の考えは最も大事なのは単語であって単語をできてこそ文法が構成されるという点である。

この前のドイツ語の授業では文法をメインに教鞭をとるので、かなり困惑した。と同時にドイツ語に対するモチベが低下した。そこでドイツ語のモチベを回復するためにビートルズを引用して学ぶシステムを導入した。結果からいえば単語力のみがかなり向上し身についた単語を文法にあてはめれば理解が通常よりもはやく深まることが判明した。つまり文法と単語のマルチタスクは効率が悪いと断言出来る。

これは昨年の中国語の授業でも同様のことが発生した。初学から始まる中国語である故に文法を提示されても分からない。発音も分からない。読み方も分からない。意味もわからない。その上で学ぶ文法などなんの意味があるのだろうか。

ここで冒頭の清華大学の話に戻る。私のチームは中国×日本×アメリカというWW2の頃には考えられなかった連合国と枢軸国の組み合わせが実現した。ここで注釈を加えるが、中国の南京政府は連合国側とするが、中華人民共和国は枢軸国なので、今回私は中華人民共和国を中国と扱う為、枢軸国扱いである。

 ここでクソ雑魚日本人イングリッシュを披露した自分であるが、なんとアメリカ人がその内容を汲み取りそれを正しい英語に直し会議するというよく分からない通訳みたいのが度々発生した。最もチャットを多く使った為このような皆に迷惑をかけることは少なかった。ここで感じたのは単語こそ至高であり文法は二の次である。会議を最低限成り立たせることに成功した。もちろんネイティブがいてこそというのも承知である。

 しかし、では文法は必要ないと言う訳では無い。それは危険な思想である。実例として中国人に英語を話す時にいくつか会話が通じなくなることが発生した。最も3回程度であるが。

 中国語でも会話をした。今度は中国人は単語だけで理解したのである。この実証を用い確立できる理論は、「最低限レベルの交流というものは単語のみで構成することが可能であり、その交流を向上させるためには文法が必要である。」ということである。

ここから日本の教育の単語と文法を同時進行するというやり方は微妙なものであって文法が先行するなどありえないことである。私は只管単語を暗記させる期間を作ることが必要となると確信し、文法に重点を置いている今の教育には使える言語が身につかないと考える。

しかしこの暗記というのも苦痛の時間でありしんどいと思われるので使用しながら覚えていくという仕組みがいいように思う。

例えばこうである。私はバナナが食べたいとする。

I want to eat bananasとなるが、私の教育方針、使用出来る英語教育だとすると

bananas!bananas! I eat! eat!Bananas!eat!want!でいいと思うのである。これで色々な単語を覚えることができる。言語というものは通じればいいと考えている上で成り立っている理論であるので、プレゼンなどになってくると使えなくなってしまう。確かにそこに問題を孕んでいるが、ここで文法を学べば、矯正という形でまた別の形態を作ることが可能であると私は考える。

発音やリスニングについてはまた述べるつもりである。